テレジーン 牢獄とゲットーの歴史
2009年8月31日
プロイセンとの戦いに備えて建造されたものの役に立つこともなかったテレジーン要塞は、19世紀後半から牢獄として使用されることになります。もとより頑強につくられている建物は牢獄に向いていたのでしょう。
牢獄として使われていた小要塞は現在、テレジーン・メモリアルとして一般に公開されています。1914年、オーストリアの皇太子が暗殺され、第一次世界大戦の発端となったサラエボ事件の犯人プリンツィプが収容された部屋も残ります。薄暗く、湿っていて、夏でもひんやりと寒い牢獄ですが、当時、囚人は裸で収容されることも多かったといいます。環境の劣悪さに驚かされます。
第二次世界大戦中、小要塞はユダヤ人や政治犯を収容する牢獄となります。一方、大要塞もチェコスロヴァキア(当時)からユダヤ人が集められ、ゲットーがつくられました。
このゲットーはナチスがユダヤ人を虐殺しているのではないかと疑う国際赤十字の査察を受け入れました。そして、赤十字は「ヒトラー総統はユダヤ人に街を贈った」と高く評価します。しかし、それはあくまでごまかしであり、大勢のユダヤ人がテレジーンからアウシュヴィッツなどの絶滅収容所に送られました。
大要塞には当時のゲットーでの暮らしぶりを再現した部屋(=写真)が公開されています。
第二次世界大戦中、小要塞はユダヤ人や政治犯を収容する牢獄となります。一方、大要塞もチェコスロヴァキア(当時)からユダヤ人が集められ、ゲットーがつくられました。
このゲットーはナチスがユダヤ人を虐殺しているのではないかと疑う国際赤十字の査察を受け入れました。そして、赤十字は「ヒトラー総統はユダヤ人に街を贈った」と高く評価します。しかし、それはあくまでごまかしであり、大勢のユダヤ人がテレジーンからアウシュヴィッツなどの絶滅収容所に送られました。
大要塞には当時のゲットーでの暮らしぶりを再現した部屋(=写真)が公開されています。
- 増田 幸弘
1963年東京生まれ
スロヴァキアの都・ブラチスラヴァ在住のフリー記者。
ヨーロッパ各地を取材しながら、日本でも取材。新聞・雑誌に特集記事や連載記事を執筆している。
「プラハのシュタイナー学校」(白水社)や「プラハ カフカの生きた街」(パルコ出版)などの著作がある。
こういう施設は、絶対に訪ねたい場所ですね。
「アウシュビッツ展」など見ましたが、暫く、息するのも苦しかったような、感覚でした。
いわなやまめ | 2009年9月 1日 15:27
こんにちは。テレジーンは訪問のたびに新しい発見があり、驚かされます。いくつもの顔があるのですよね。
増田 幸弘 | 2009年9月 1日 16:37