黒潮の暖風に乗りただよう磯の香り
「昔のお正月って確かこんな感じだった」。八丈島空港に降り立った第一印象。太陽はすでに昼の高さにあるのに、ほとんど車や人の動きが感じられない。違うのは、風の暖かさ。初春というより、常春だ。黒潮に浮かぶ島へ来たことを実感する。風にもどこか、磯の香りが混じっているような。
かつて「東京都八丈支庁舎」だったことを示す、大きな看板を掲げたままの八丈島歴史民俗資料館。昔の小学校を思わせる木造の建物に足を踏み入れたことで、「NHKの人形劇『ひょっこりひょうたん島』のモデル」「眺めのいい温泉がある」という程度だった島のイメージがすっかり変わってしまった。「流人コーナー」で、多くのエピソードが紹介されている近藤富蔵(1805-87年)。この男の魅力にまいってしまい、島の側面史にすぎないと思っていた流人史がぐっと大きく、目の前に迫ってきた。
八丈島への流人第一号は、岡山城主だった宇喜多秀家。関ケ原の戦いで、徳川軍に敗れ、1606年、2人の子供、乳母、医師ら一行12人とともに流罪となった。以後、江戸幕府は崩壊までの二百数十年間、思想犯、博徒らおよそ1900人を、江戸から南へ290キロ離れたこの島へ流したという。
資料館に、「もういはじ書かじと思ひ思へどもまたあやなくもしめす水茎」という富蔵の歌碑がある。旗本の長男だった彼は21歳の時、土地争いが原因で隣家の農民7人を殺傷し、流罪となった。まったく嫌な罪を犯したものだが、流刑後、改心した彼は、歌が示すように、島での暮らしぶりを記録し続けた。全69巻(うち40巻は散逸)に及ぶ「八丈実記」は、「朝食は芋がら、昼食は麦こがし、十丁(1キロ強)も歩けず」などと、飢えとの闘いを詳細に記す。





















