テレジーン要塞の話
2009年8月24日
プラハの北西にバスで一時間あまり行ったところに、テレジーンという街があります。ドイツとの国境にほど近く、ドイツ語ではテレージエンシュタットと呼ばれています。このドイツ語名には「テレジアの街」の意味があり、オーストリア帝国の女帝マリア・テレジアにちなんで名付けられました。
この地にはもともと小さな村があったといいますが、皇帝ヨーゼフ2世はそこに要塞を築くよう、命じます。1780年のことでした。ドレスデンとプラハを一直線に結んだ中間地点にあるこの地は、当時、軍事的に重要な位置を占めていたためです。
それから10年の歳月をかけて、巨大な要塞都市がつくられました。いまもこの要塞は残っていて、一部は公開されてもいますが、緻密に煉瓦を積み重ねてつくられていて、まるで城のようです。
大きく大要塞と小要塞に分かれ、大要塞のほうには駐留する軍人が暮らすための街が築かれました。しかし、時代の移り変わりで戦術が変わり、莫大な費用を費やしてつくられたこの要塞が戦いの焦点になることはありませんでした。
それから10年の歳月をかけて、巨大な要塞都市がつくられました。いまもこの要塞は残っていて、一部は公開されてもいますが、緻密に煉瓦を積み重ねてつくられていて、まるで城のようです。
大きく大要塞と小要塞に分かれ、大要塞のほうには駐留する軍人が暮らすための街が築かれました。しかし、時代の移り変わりで戦術が変わり、莫大な費用を費やしてつくられたこの要塞が戦いの焦点になることはありませんでした。
- 増田 幸弘
1963年東京生まれ
スロヴァキアの都・ブラチスラヴァ在住のフリー記者。
ヨーロッパ各地を取材しながら、日本でも取材。新聞・雑誌に特集記事や連載記事を執筆している。
「プラハのシュタイナー学校」(白水社)や「プラハ カフカの生きた街」(パルコ出版)などの著作がある。