万年橋(函館)が200年前ここにあったのだ
2019年10月21日
僕は函館市立万年橋小学校に6年間通学していた。
吉川町という子どもの頃住んでいた町内にあり、1927(昭和2)年に開校した学校だ。
最近になってからこの校名にある万年橋という橋がどこにあったのか気になりだした。
そんな名前の橋は見たことないが、バスの停留所にも万年橋前というのがあったりするので、
きっと何かあるはずと思い、ネットで調べてみたが分からなかった。
ところが数日前に函館に行き、子どもの頃同級生たちが住んでいた場所をぶらぶらと歩いていて、
かわら版が立っているのを発見。
このあたりに万年橋が実際にあったというのだ。
万代町商工会が作ったそのかわら版によると、1804(文化元)年に箱館奉行所が造った太鼓橋で、
幅2間、長さ13間(幅3.6m×長さ23.6m)の橋だったらしい。
かわら版には当時の写真らしいものも出ていて、この橋の周辺がその後100年に渡り栄えていたそうだ。
偶然とは言え、このかわら版を見つける事が出来たこと、このかわら版を作ってくれた皆さんに感謝なのだ。
さらにぶらぶら歩いてみると、子どもの頃の同級生たちが住んでいた当時の古い借家が存在していた。
多分、築50年以上の古い建物がほとんどだと思うが、朽ち果てた空き家が続いている感じで、
人が住んでいる雰囲気はなく、全国的にも住んでみたい街の上位にいつも入る函館も、
他の地方都市同様、人口減で住む人がいなくなった古い住居がそのまま残っているのだ。
さらに、さっきのかわら版にも紹介されていた
箱館戦争終結の地、亀田八幡宮(函館市八幡町3-2)に向かって歩いた。
小・中学生の頃はこの亀田八幡宮の例大祭に家族で行ったものだった。
境内いっぱいに露店が立ち並び、スマートボールなどのゲームや見世物小屋、バイクサーカスなどを楽しんで見た。
1390(明徳元)年まで起源をさかのぼるという北海道有数の古社であり、
1869(明治2)年には境内が戦場になり、ここの神殿で黒田清隆、榎本武揚が戦争終結を迎えたのだ。
境内には当時の歴史を伝える案内表示も設置され、
歴史好きの人ならこの神社内で1時間以上楽しめるのではないだろうか。
- 浅井 精一
いつのまにかすっかりオヤジになってしまったことに気がついた昭和34年生まれの男。函館出身で母校の函館西高の大先輩が北島三郎、一年後輩が辻人成(といっても面識は無い)。札幌の大学を卒業後、タウン誌編集や10年以上ホテルマンを経験するなどして、現在は編集プロダクション(株)カルチャーランド(札幌・社員24人)代表。手塚治虫マニアであること、昭和40年代のプロレスファンであることで、ごく一部に有名。
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