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ソウル 不幸ばかりじゃない

2011年07月08日

 脱北者の女性が自宅に着くと家の中から娘が言ったそうだ。「母さん少し待って」。数分後、玄関を開けると電灯の消えた部屋にロウソクのあかりがハート形に浮かんでいた。

 女性の誕生日だった。10代半ばの娘は手作りの料理を並べた。いなりずし、ジャガイモデンプンで作った透き通ったうどん、豆やエビなどで作る「人造肉」。どれも懐かしく独特の故郷の味だった。

 北朝鮮では食べていくのに苦労したが、娘は両親の誕生日にはお膳を欠かさず整え、家族で楽しく祝ったという。娘は今回「母さんの娘だから私も作ってみた」とさらりと話した。洋服もプレゼントしてくれた。

 娘は今、北朝鮮から脱出した同世代と一緒に施設で生活。普段は母娘離れて暮らすソウルの生活も楽ではないが服も食材も娘が自らの生活費を削って用意した。脱北から数年、初めてのことだった。

 この話は食堂で昼食時に聞いた。彼女は目の前の料理に30分間ほど手を付けず、ただただうれしそうに話し続けた。「北朝鮮では学校が家から遠くて通えなかった娘が立派に育った」と目を潤ませ、「貧しい国でも楽しみはあるし、脱北者だって笑ったり歌ったりする人間ですよ」。

 つらい身の上ばかりを勝手に想像して接するのは、彼女の人生に失礼だと気づかされた。(辻渕智之)