ジャンル・エリア : 岐阜 | 歴史 2020年04月16日

笹尾山の「石田三成陣跡」から見下ろした合戦現場(パノラマ撮影)
新型コロナウイルスの感染拡大が止まらない中、どこに出掛けるのも容易ではない。できれば密閉、密集、密接の「三密」は避けたい。となると、屋内施設よりは青い空の下でのんびりできるところの方がいい。
そんなことを考えていて思いついたのが、天下分け目の戦いがあった岐阜県関ケ原町。NHKの戦国大河を毎週見ているせいかもしれない。一度も行ったことはないが、映画やドラマで見た関ケ原合戦のシーンは広大な野原が舞台だった。きっと今も広々としているだろう。
まずは、徳川家康が東軍の指揮を執った場所から始めよう。JR関ケ原駅や町役場のすぐ近くにあり、現在は芝生が敷かれた公園になっている。「徳川家康最後陣跡」の看板があるので迷うことはない。看板には、1600(慶長5)年9月15日午前8時ごろに始まった合戦当日の様子が記されている。
家康は当初、桃配山(ももくばりやま)に布陣していたが、戦況が把握できないため同11時ごろ、戦場に近いこの地に前進。善戦する西軍にいら立ち、西軍を裏切る約束をしていたのに動こうとしない松尾山の小早川秀秋の陣に向け、鉄砲を撃ったとされる。正午すぎ、とうとう小早川の大軍が動き、西軍に襲いかかった。
さあ大決戦だ。ただ、ここは樹木や建物に遮られ、あまり視界がきかない。先に進もう。

関ケ原の合戦で、最も激しい戦いがあったとされる「決戦地」=いずれも岐阜県関ケ原町で
最後陣跡から北に1キロ弱。「決戦地」の看板があった。山々に囲まれた盆地の田園地帯で、中央よりやや北寄りの場所。戦いが最も激しかったところだ。小早川の寝返りを機に東軍は勢いづき、西軍は総崩れに。最後まで残った石田隊などは、この辺りで東軍の猛攻を浴びた。
ほんの10分ほど北に歩いて階段を上れば、西軍の“本拠地”だった笹尾山の「石田三成陣跡」に着く。関ケ原が全て見渡せる。三成はここで戦況を見ていたのだろう。初めは健闘していた自軍の兵の壁が、小早川の裏切りでずたずたに破れていく。午後2時ごろには石田隊も壊滅し、逃走を余儀なくされた。
三成はどんな思いで、敵兵の波が自分の足元へと押し寄せるさまを見ていたのか。三成陣跡から盆地を見下ろしていると、ふと400年以上前の合戦の残像をそこに見てしまう。敵の大軍に押され、敗走する兵士たち。敗軍の将の視点で眺めると、何となく感傷的になる。
関ケ原は当時、交通の要衝だった。現在は名神高速・関ケ原ICから近く、自家用車を使えば、誰とも接触せずに自宅から合戦現場まで来られる。たまには歴史の舞台に立ち、当時の人々、出来事に思いをはせるのも悪くないのでは。 (金森篤史)
▼ガイド JR関ケ原駅へは、東海道線で名古屋駅から50分強。駅から石田三成陣跡へは徒歩25分。関ケ原駅前観光交流館や笹尾山交流館などは、新型コロナウイルスの感染拡大防止のため休館中。詳細はホームページ「関ケ原観光ガイド」を参照。