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【岐阜】耕雲斎ゆかりの歌碑、太田宿本陣跡に移設 自由な見物可能に

ジャンル・エリア : エンタメ | 岐阜 | 歴史  2021年06月09日

移設された耕雲斎ゆかりの歌碑。「武士の思ひこめにし梓弓ひきつめてこそ何たゆむべき」と刻まれている=美濃加茂市の太田宿本陣跡で

移設された耕雲斎ゆかりの歌碑。「武士の思ひこめにし梓弓ひきつめてこそ何たゆむべき」と刻まれている=美濃加茂市の太田宿本陣跡で

 大河ドラマ「青天を衝(つ)け」に登場している水戸藩士、武田耕雲斎(1803~65年)ゆかりの歌碑が7日、美濃加茂市の太田宿本陣跡に移設された。これまでは近所の個人宅の庭にひっそりと立っていたが、これで歴史ファンも自由に見物できるようになった。 (渡辺大地)

 耕雲斎は幕末の動乱期、尊王攘夷(じょうい)を唱える急進派集団「天狗(てんぐ)党」の総大将に担がれ、筑波山で挙兵。1000人ともいわれる一団を率い、中山道沿いに京都に向かった。

 天狗党は各地で暴徒化していたとされ、太田宿では、太田代官所を警備する陣屋非常守の林新右衛門らが事前交渉役を務め、一行に穏便に通過するよう要請。その結果、天狗党はやりの矛先に白い紙を巻いて太田宿を通過し、本陣で歓待を受けたとされる。

 和歌は耕雲斎が、交渉役だった新右衛門に当時の心持ちを込めて贈ったとされる。「武士(もののふ)の思ひこめにし梓弓(あずさゆみ)ひきつめてこそ何たゆむべき」との内容で、後に新右衛門の末裔(まつえい)が歌碑にして庭に建てたと伝わる。

 大河ドラマの放映をきっかけに3月下旬ごろ、新右衛門の末裔に当たる林桂太郎さん=名古屋市=から美濃加茂市に寄贈の提案があり、太田宿本陣跡の一角に整備中の庭園に移設することになった。

 高さ1.3メートルの石灯籠形。耕雲斎は新右衛門に対し短冊に和歌を書いて贈ったと考えられており、歌碑に刻まれた文字は耕雲斎の字との見方もある。ただ、短冊は残っておらず定かではないという。歌碑のそばには、いわれを記した解説看板を近く設置する。

 旧中山道太田宿の歴史に詳しく、移設に関わったNPO法人「宿木(やどりぎ)」理事長の佐光重広さんは「和歌からは、耕雲斎の尊王攘夷への強い思いが伝わってくる。地域の貴重な歴史が日の目を見たので、これを機に興味を持ってもらえれば」と話している。