【本文】

  1. トップ
  2. 旅だより
  3. 飯坂温泉
飯坂温泉

飯坂温泉 福島市飯坂町 歴史に寄り添う名湯

松尾芭蕉も入ったとされる共同浴場の鯖湖湯。前を通ると中から湯を流す音が静かに伝わってくる

松尾芭蕉も入ったとされる共同浴場の鯖湖湯。前を通ると中から湯を流す音が静かに伝わってくる

 -飯坂温泉にて。

 1968(昭和43)年に刊行された金子光晴の詩集「愛情69」の一編に、そう副題がついている。

 大正、昭和の激動期を生きた反骨の詩人は、独り朝の湯につかりながら老いた自分の裸を目の当たりにし、「生きてゐるからには、大小欲のかたまりなのだ」と詩を始める。そして我執、名誉心、利殖の楽しみ、正義にくみする自己陶酔…。これら「すべては逝くのだ」と喝破し、人間のエゴを突き放した。

 それから50年が過ぎた。東北最大といわれ、昔から歓楽温泉として栄えた街は、梅雨ただ中の日曜の夜ということもあって人通り少なく静かだった。オレンジ色にライトアップされた共同浴場「鯖湖(さばこ)湯」の建物を眺めていると、桶(おけ)がぶつかる乾いた「カラン、コロン」という音が小雨に分け入るように響く。

 老舗旅館が立ち並ぶ中心部にある鯖湖湯は、江戸時代に松尾芭蕉も入ったとされ、地区で最も古い湯だ。かつては日本最古の木造建築の共同浴場として知られ、平成に入り御影石の湯船に改装された。街を一巡した後の夜8時前に入ってみると、広い浴場に自分一人だけだった。

摺上(すりかみ)川にかかる橋から望む温泉街。川沿いに立つやぐら風の建物も共同浴場の一つだ

摺上(すりかみ)川にかかる橋から望む温泉街。川沿いに立つやぐら風の建物も共同浴場の一つだ

 「飯坂の湯はとにかく熱い」と福島の市街地で聞いてはいたけれど、これほどとは。最初はひざまでつかるだけでも数秒しか耐えられない。途方に暮れた後、番台さんにホースで冷水を引いてもらい、ようやく浴槽に肩まで入ることができた。

 地区に9つある共同浴場は、観光客だけでなく、地元の住民もほぼ毎日利用しているらしい。しばらくして年配の人が入ってきて、軽く体を洗った後、一気に首までつかった。驚いて冷水を止めようかと尋ねると「こっちまで来ないから気にしないで」と慣れた様子だった。光晴が入った湯がここだったのかは定かではないが、湯の熱さには一気に目の覚める思いだった。

藤原さんの雑貨店「あとりえ うたかた」ではフランスのマルセイユ石鹸などこじゃれた入浴グッズが並ぶ=いずれも福島市飯坂町で

藤原さんの雑貨店「あとりえ うたかた」ではフランスのマルセイユ石鹸などこじゃれた入浴グッズが並ぶ=いずれも福島市飯坂町で

 温泉街で光晴の足跡を示すものは見当たらないが、ちょうど光晴の詩が発表された頃に子ども時代を過ごした人に出会った。昭和41年生まれで雑貨店を営む藤原隆宏さん(52)だ。当時は温泉街に200人も芸者さんがいて、「夜遅くまで響くげたの音がやかましくて、なかなか寝つけなかったくらい」とにぎやかさを懐かしむ。東日本大震災の前の月に東京からUターンした藤原さんは今、縁あって芸者さんの埋もれた歴史を少しずつ調べているそうだ。

 その後のバブル経済とその終焉(しゅうえん)、そして大震災と、歴史ある温泉街は時代の波に直面し続けた。特に震災後しばらくの間は、風評被害もあってかつてない苦難だっただろう。

 今は少しずつ活気が戻りつつあるようで、かつての繁栄とはまた違った道筋も見える。昨年は音楽家の大友良英さんが関わる芸術祭が休業中の大型旅館で開かれ、今春の大型連休も人気歌手の竹原ピストルさんが屋外で無料ライブをするなど訪問者を喜ばせている。6月に市内で開かれた東北絆まつりの時期には、「久しぶりに満室になった旅館もありました」と観光案内所のスタッフの声は明るい。

 震災と原発事故は、少なからず日本人にとって「何が幸せなのか」という考えを変えてしまったと思う。そんな今、うずまく人間の欲望を前に「すべては逝くのだ」と見通した光晴の言葉を思わずにはいられない。温泉街を支える長い歴史、自分たちを待ち受ける未来に思いをはせながら、熱い湯に慣れようと何度もつかった。

 文・写真 南拡大朗

(2019年7月26日 夕刊)

メモ

地図

地図

◆交通
東京駅から福島駅までは東北新幹線で1時間半程度。
福島駅で福島交通飯坂線に乗り換え、20分で終点・飯坂温泉駅へ。
駅舎を出て交差点のはす向かいに観光案内所がある。
車では東北道・福島飯坂ICで降りて10分。

◆問い合わせ
飯坂温泉観光協会/飯坂温泉旅館協同組合=電024(542)4241

おすすめ

「笑楽庵(あん)」のチャーシューメン

「笑楽庵(あん)」のチャーシューメン

★共同浴場と足湯
午前6時から午後10時まで入れる共同浴場が9カ所あり、観光客だけでなく地元の人も日常的に利用している。
ぬるめの湯の浴槽が併設されているのは飯坂温泉駅近くの波来(はこ)湯で、ここのみ300円。
他は200円。無料の足湯も3カ所にある。

★飯坂けんか祭
毎年10月上旬に行われる飯坂八幡神社の例大祭。
町内6地区の太鼓屋台がみこしの宮入りを阻んで激しくぶつかり合う。
大阪・岸和田、秋田・角館とともに「日本三大けんか祭り」の一つといわれている。
今年は10月4~6日の3日間で行われる。

★飯坂ラーメン
昔ながらのしょうゆ味のラーメンを出す店が多く、つるつるしてのど越しが良い麺が特徴。
創業80年近い大衆的な食堂「笑楽庵(あん)」のチャーシューメンは珍しく鶏肉を使っている。
「円盤餃子(ぎょうざ)」も名物で、かつて芸者さんに盛んに差し入れられた名残から夜だけ食べられる店が多い。

※掲載された文章および写真、住所などは取材時のものです。あらかじめご了承ください。