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熊野古道と中上健次

熊野古道と中上健次 和歌山県新宮市 苦行いとわぬ深山の坂

水たまりのようになった熊野古道

(左)水たまりのようになった熊野古道 (右)越前峠まで、ひたすら上りが続く熊野古道

 どうして始めてしまったんだろう。こんなに苦しいとは思わなかった。足が滑る。石や木で作られた山道は、降り続いた雨のせいでほとんど水たまりだ。水をたっぷり吸ったスニーカーが、歩くたび音を立てる。雨はやまない。容赦なくかっぱを打ち付ける。それでも登らなければいけない。先は長い。

 世界遺産、熊野古道を歩こうと思ったきっかけは、夏に見たニュースだ。つえのようなものを突きながら、古道の坂道を登っている人たちが映っていた。「こんなに暑い中、よく登るなあ」。そのときはそう思ったが、秋になり、登ってみようと思った。なぜだかは分からない。

 きつい。そしてつらい。和歌山県新宮市の宿泊施設「小口(こぐち)自然の家」を出て熊野古道に入ってから、もう2時間近くたっているはずだ。目指すは越前峠。800メートルの標高差があるのでほぼ山登りだ。古道の中でもこの道は、平安貴族が熊野詣でをした際にはまだ整備されておらず、江戸時代に多くの旅人が通り、いくつもの旅籠(はたご)ができるなどしてにぎわった、比較的新しい道だ。今日は豪雨のせいか、誰にも会わない。昼前だというのに薄暗い。雨に加え、すっと伸びた杉などが空を覆っているためだ。雨がやむ気配はない。

中上健次(右端)ら名誉市民の看板。駅前に立つ

中上健次(右端)ら名誉市民の看板。駅前に立つ

 この道を選んだのには理由がある。「熊野」という地名から作家、中上健次が頭に浮かび、その出身地である新宮を訪ねようと考えたのだ。故郷の被差別地域を「路地」と呼び、そこで生きる人々を描いて「岬」で芥川賞を受賞した小説家だ。映画化された作品も多い。薄曇りの空の下、JR新宮駅に着くと、すぐに名誉市民の看板が見つかった。モノクロの写真の中で、中上はたばこを手にしていた。数分歩くと中上の生家があった地域に着く。今は集合住宅が立ち並び、市教委が設置した中上の生家や功績を紹介する案内看板が立っている。田舎らしいゆったりした、のどかな空気が流れているような気がした。

 雨は勢いを増してきた。坂の勾配もきつくなった気がする。多分「胴切坂(どうぎりざか)」と呼ばれる難所だ。江戸の人々もこんな、横っ腹が切れるような苦しい思いをしたのだろうか。山歩きのベテランの薦めに従い、トレッキングポールという登山用のつえを2本持ってきてよかった。山道を登るのに、脚だけじゃなく腕の力もいくらか使える上に、転びにくい。息は上がり、鼓動も激しくなってきたが、越前峠まではもうすぐのはずだ。まだ行ける。

中上に関するあらゆる文献などが置いてある資料収集室

中上に関するあらゆる文献などが置いてある資料収集室

 中上健次資料収集室は市図書館の3階にあった。中上自筆の原稿や書簡、写真、中上研究の論文など、中上に関するあらゆるものが置いてある。全てを見られるわけではないが、原稿用紙の代わりに集計用紙を使い、細かい字で改行せずにびっしり書いていた様子などが分かる。担当者の三峪(みさこ)さわ代さんによると、年配のファンだけでなく、若いファンも小説の舞台、熊野を見るために来るという。「私も若いときは小説を読んだし、最近はエッセーや批評も好きになった。風景描写がきれいで、山や海、風がすごく好き」

 風まで強くなってきた。息ができない。5メートル登るたびに止まる。苦しい。でもここまで来てやめられない。3時間近く歩いた。ゴールは近いはずだ。

 三峪さんは一時期、中上の小説を読んでいなかった。「だってほら、若い女性にとってはあまり…」。確かに中上の小説には男女の描写も多い。「岬」の最後の場面だってそうだ。

 
ゴールと定めた越前峠の看板と、歩きを支えてくれた2本のトレッキングポール=いずれも和歌山県新宮市で

ゴールと定めた越前峠の看板と、歩きを支えてくれた2本のトレッキングポール=いずれも和歌山県新宮市で

 雨に打たれ、ももから下へと筋肉痛が広がっていく。ひざの外の筋肉が痛い。震えだした。限界が近い。脚はもうほとんど上がらない。腕が脚だったら良かったのに。平らなところに出た。何か四角いものが見える。越前峠の看板だ。達した、と思った。

 文・写真 金森篤史

(2019年11月15日 夕刊)

メモ

地図

◆交通
新宮へは、名古屋からJR紀勢線の特急ワイドビュー南紀で、3時間半程度。
小口へは、新宮駅前から熊野交通の路線バスで50分弱。
本数は少ない。

◆問い合わせ
新宮市観光協会=電0735(22)2840。
中上健次資料収集室=電0735(22)2284(市図書館)

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★阿須賀神社
熊野川河口近くにある神社。
歴史は古く、同神社によると、紀元前5世紀の孝昭天皇の代に創建されたという。
2016年に世界遺産に追加登録された。

★映画撮影
新宮市などで、中上健次の小説の映画化作品が撮影されている。
「軽蔑」(広木隆一監督)はロケを同市で行い、ロケ地マップも作られた。
「火まつり」(柳町光男監督)は同市と三重県熊野市で、若松孝二監督の遺作となった「千年の愉楽」は同県尾鷲市で撮影された。

★さんま寿司(ずし)
サンマが熊野灘まで南下してくるころには、脂が抜けている。
そのサンマに塩や酢を利かせ、すし飯に巻いて作る郷土料理。

★わかやま歴史物語100
熊野古道など和歌山県の歴史の舞台100カ所を巡るスタンプラリー。
来年3月20日まで。

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