真冬の北アルプスを越えたとの伝説で、史実であれば冬山登山の快挙とされる「さらさら越え」で知られる尾張(愛知県西部)出身の戦国武将・佐々成政(さっさなりまさ)。豊臣秀吉に「武者の覚(おぼ)え」、つまり侍の模範とたたえられつつ、失政の責任を問われ切腹した。晩年に隈本(くまもと)(今の熊本)城主として治めた熊本県に、非業の足跡をたどった。
熊本市の中心街にある熊本城公園。2016年の熊本地震で、大小の天守や櫓(やぐら)の瓦、石垣が崩れた。修復工事が進み、国内外の観光客でにぎわっている。
成政が1587(天正15)年7月初めに肥後(熊本県)の領主に任じられた時、天守や櫓はなかった。当時の城があったのは熊本城公園の南。古城堀端公園が痕跡だ。静かな敷地に往時の面影は見極めがたい。
富山城主だった成政は84年、秀吉に反抗し、翌年に降伏。改めて肥後を領地に与えられたのは破格の抜てきだった。
熊本城公園内の県立美術館に非公開の古文書がある。成政が88年1月付で、家来の鬼塚刑部(ぎょうぶ)に宛てて所領を与えると約束する内容だ。取材を申し込むと、特別に見せてくれた。堂々とした「成政」の署名と花押。署名は家来の代筆だが、花押は成政の自筆とみられている。本人の豪胆な人柄がにじみ出てくるようだ。
しかし成政は、この書状を出すころまでの半年間、窮地に陥っていた。肥後の豪族らが結束し、反乱を起こしていたのだ。
原因は諸説ある。特に、秀吉の意を受けて耕地の広さや収穫高を調べる「検地」への反発だった可能性が指摘されている。
領主らは長らく、豪族らを介して領内を支配してきた。検地で耕地の状況をじかに把握できれば、年貢の量や有事の徴兵数を増やす口実を得やすくなる。
成政はかつて、天下人の織田信長の家来として北陸を転戦し検地も手掛けた。中央の政権が地方の情報を握る、新しい国の在り方を重視していたはずだ。
一方で、成政に歯向かった豪族らの側にも、大義はあった。
熊本城の北25キロ、熊本県山鹿(やまが)市のあんずの丘。「郷土の誇り」と刻まれた台座に、直垂(ひたたれ)姿の侍の銅像があった。侍は豪族の一人の隈部親永(くまべちかなが)。反乱の先駆けとして87年8月ごろ、丘の6キロ南東の隈府(わいふ)城(同県菊池市)で兵を挙げた。
どんな人物だったのか。住まいだった丘の4キロ北東の隈部氏館跡に向かった。山中に、石垣や館の礎石が残っていた。近くの斜面に棚田が広がっていた。
親永像の温和な顔立ちは強い意志にも満ちていた。土の臭いを帯び、農民に寄り添う侍だったのかもしれない。だとすれば弱者の負担を増やしかねない検地の強行を許せなかったはずだ。
成政は秀吉が派遣した援軍にも助けられ、88年1月ごろまでに反乱を鎮めた。しかし秀吉は、混乱を成政の不手際だと責め、大坂城への出頭を命じたとされる。
88年7月7日、成政は大坂への往路、秀吉の命により現在の兵庫県尼崎市で切腹した。享年は不明で、50前後だとも。
辞世の和歌は「この頃(ごろ)の厄妄想(やくもうそう)を入れ置きし鉄鉢袋(てっぱちぶくろ)今破るなり」と伝えられている。
成政は信長の馬廻(うままわり)(親衛隊員)として頭角を現した。信長とともに歩むことが生きがいだったはず。信長が82年に明智光秀に討たれた時、成政の心は萎(な)え死んでいたのではないか。かつての同輩の秀吉に頭を下げてまで生き永らえる茶番に、気付いてしまったのではないか。
秀吉方に捕まった親永は、先立つ6月20日に討ち果たされたとされる。もし成政がそれを知らされていたなら、武士の一分を貫いた親永の生きざまに、目をつぶってほほ笑んだかもしれない。
文・写真 林啓太
(2020年2月21日 夕刊)
メモ
◆交通
熊本へは県営名古屋空港、中部国際空港から直行便がある。
阿蘇くまもと空港から熊本城公園までは、リムジンバスと徒歩で50分。
公園から隈府城跡へはタクシーで50分、そこからあんずの丘まで15分。
◆問い合わせ
熊本県観光連盟=電096(382)2660
おすすめ
★桜の馬場
城彩苑(じょうさいえん)
熊本城公園内にあり、飲食店と土産店が集まるエリア。
「熊本城おもてなし武将隊」が演舞を披露する。
10人のメンバーは、佐々成政が失脚した後に肥後を治めた加藤清正や小西行長ら。
成政は含まれず、地元での知名度の低さを象徴する。
電096(322)5060(総合観光案内所)
★馬刺し
代表的な郷土料理。
加藤清正が朝鮮出兵の際に食べ、肥後に持ち込んだとの俗説がある。
他にはレンコンの穴にからしみそを詰めて油で揚げる「辛子蓮根(からしれんこん)」などがある。
★隈部親永の墓
隈部氏館跡のそばにある。
最期の地となった福岡県柳川市にある墓から分骨したという。
秀吉方にくだった親永は、柳川城主・立花宗茂に預けられた。
宗茂は勇士を厚遇したが、秀吉は殺すよう命じた。
親永が登城すると、宗茂の家来が抜刀して現れ、死罪を覚悟していた親永を討ったとされる。