チェコとスロヴァキアをめぐるエピローグ
2024年3月25日
私たち家族は2006年3月にチェコのプラハで暮らしはじめました。この欄はまず、「プラハの散歩道」というタイトルで、翌2007年9月にスタートしました。2010年7月にスロヴァキアのブラチスラヴァに引っ越したことから、11年1月から本欄「ブラチスラヴァ便り」になりました。チェコおよびスロヴァキアというかつて一つだった国から、ほんのちょっとした話題をこれほど長い時間にわたって書きつづけることになるとは思いもしませんでした。原稿は積もり積もって、合わせて1000枚近くにもなりました。
移り住もうと思ったきっかけは、子どもの教育でした。学校に対する不満を、自分がかつて抱いたのと同じように子どもたちも感じていることに疑問を抱いたのです。そこで思い出したのが、社会主義の時代に取材をしたプラハの小学校でした。アメリカやインドなどの学校も訪ねたことがあったのですが、プラハの小学校は体制のちがいもあってか、とくに印象に残っていました。漠然とそんなことを考えているなかでプラハにあるシュタイナー学校と出会い、転校することにしたのです。革命で社会主義が崩壊してほどない時期にも滞在していたので、どのように社会が変化しているかを間近で見たいとの思いもありました。
プラハの学校が学級崩壊状態になってからはまたちがう問題に直面し、今度はブラチスラヴァに引っ越しました。チェコとスロヴァキアはもともとひとつの国だったから、子どもたちはなんなく受け入れられるだろうと思ったからです。実際にはそうもいかず、同じようでちがう、ちがうようで同じことに戸惑いを覚えました。そんなふうにして少しずつこの二つの国を自分なりに理解していったのです。
チェコとスロヴァキアで学んだ二人の子どもたちは、おかげで自分たちの特性に合った生き方を自ら選んでいきました。子どもたちの「自立」という当初の目的をようやく達成したとき、気づいてみたら20年弱の月日があれよあれよという間に過ぎていました。
振り返ればいろんなことがありました。個人的なことも社会的なことも政治的なことも含めてですが、そんな暮らしのなかで街と国の微妙な変化を日々、実感してきました。なんにも変わらないものもあれば、同じ国、同じ街とはとても思えないほど変わったこともあります。その積み重なりがなんであれ「歴史」になっていくのだと、社会主義の時代からの流れを目の当たりにしてきて感じます。そのときどきの気づきをもとに、短い原稿で綴ってきたことは街と国にまつわる観察記録になっているのではないかと思います。
チェコよりも長くなったスロヴァキアでは、なにがしかの問題が生じても決まってその場その場で解決できました。それが生きやすさ、暮らしやすさにつながっていたように思います。過ぎ去った日々を、「楽しかったー!」と妻は笑います。私にしてもやはり楽しかったことばかりを覚えています。たくさんの方々に親切にしていただいたことには感謝で一杯です。
本欄が終わる時期と、長らく暮らしたスロヴァキアの地を離れる時期が奇しくも重なりました。巡り合わせとはそういうもので、それが「運」なのだと以前、すぐれた業績のある年輩デザイナーに教えられたことがあります。その流れに素直にしたがうのを「運行」というのもそのとき学びました。これからなにをするのか、なにをしようとしているのか、自分でもまだよくわかっていませんが、「ブラチスラヴァ便り」はこれで終わります。またどこかでお目にかかれるのを楽しみにしています。
長らくのご愛読、ありがとうございました。
- 増田 幸弘
1963年東京生まれ
スロヴァキアの都・ブラチスラヴァ在住のフリー記者。
ヨーロッパ各地を取材しながら、日本でも取材。新聞・雑誌に特集記事や連載記事を執筆している。
「プラハのシュタイナー学校」(白水社)や「プラハ カフカの生きた街」(パルコ出版)などの著作がある。
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